Choice

好きをみつける→仕事にする、をサポートしている日々の記録

あなたの夢はなんですか?

今の夢ってなんだろう?

自分に尋ねたら変わる事を楽しむことと、自分のスキを大切にしていくこと。挑戦をやめないこと。これしか出てこないので、出たとこ勝負な人生は変わる事がない。あまり大きな夢と言われるようなものや、具体的に目標と言われるものは無い。

 

ただただ、しあわせな毎日を生きるには、瞬間瞬間でしあわせ!と思えることを選択していくことだと考えている。

 

沢山の夢をみてきた

こどもの頃から数えきれないくらい、夢をみてきた。その中で叶ったもの、叶わなかったものがある。もちろん取り組んで、行動して結果手に入らなかった時と、手に入らなかったときに起こったことはただシンプルだった。

 

成果が出るとき、達成できるときは、最初の時点で、”できる”という確信がある。これは直感の話で、思いつきとは全く異なる。

やりたいと思って取り組む先に、自信につながっていくことはできるものと、できないものがあった。結局のところ、できるものは「やりたい」ではなくて、「やる」というもうその姿そのものになっているような感覚があった。

 

大きくなったら、何になりたい?

子供時代によく大人に聞かれていた。幼少期は、とっさに反射として思いついたものを口にしていた。お花屋さん、バレリーナ、アイスクリーム屋さん、お菓子屋さん・・・その職業は日々変わっていって、お花屋さんなら花がかわいいから。バレリーナはクルクル回るのが好きだから。アイスクリームを食べるのが大好きだから。お菓子や甘いものが好きだから。というそのとき”好き”なものに翻弄されていた。

 

幼稚園児のころ、親の転勤の為に周囲より一足先に卒園をした

小学校入学を前に、転勤のため、周囲よりさきに卒園することになった。先生に放課後に、カセットテープを回した状態で、説明なしで将来の夢を聞かれた。

 

「大きくなったら、何になる?」

と先生に聞かれた私は、なぜかスーパーのレジの人とこたえた。

 

記憶をたどると当時、幼馴染がもっていたレジのおもちゃでよく遊んでいて、実際のレジを触ってみたくて仕方が無かった。

金額を入力すると、ガシャーンとでてくるお金の入った引き出しが触ってみたくて仕方が無かった。

 

とっさにレジの人と答えていた。この夢は最初についたアルバイトで、即叶えられた。おいしいものを作って売る、接客のすべてをそのバイトで経験させてもらった。レジの人は、もちろん楽しかった。

 

ただ、これは大人からすると、まったくもって”夢”は無い仕事である。スーパーのレジにあこがれる大人は少ない。

けれど子供時代のその時の自分にとっては、それが夢だった。多分ひとことさわらせてくださいと言えば、答えてくれる大人はいくらでもいたと思う。

 

最初に描いた職業はすぐ諦めた、画家だった

小学校低学年の頃に、ケント紙に絵を描いて七夕かざりを作った。配られた色の紙が嫌で、その紙に絵を描いたら、思っていたよりもいいものが出来上がった。

 

こういう「ものを作る事」を毎日できたら、しあわせだなぁ・・・と考えて一番最初に浮かんだ職業は画家だった。ただ、わたしはその夢は思いついた瞬間、諦めた。

 

現実的な考えをもつ子供だったので、当時画家の知り合いが一人もいなかった事。それで食べていけるようなイメージはなく、芸術家という生き物はどこか、出来上がった作品が気に入らなければぶち壊してしまうような変な人のイメージがあった。(これは多分ぷよぷよの、ゲームの中でいた陶芸家だったように思う) 

自分は、そういう人間にはなりたくなかったし、何か人の役に立つことや、人を喜ばせる事がしたいなと考えてデザインや工芸に惹かれていった。

 

小学校1,2年生の頃の出来事で、その後高学年になって美術の先生が大好きで、教師という選択肢にもあこがれた。

 

転向先で、教師が心底嫌になった

その後、小学校卒業をまたずにまた転向した。転校先でみた大人の世界はそれまでとは全く違っていた。先生同士がいがみあい、ヒステリーの矛先に生徒をののしる。平和でしあわせだった学校生活から一転、教師のえこひいきやいじめを助長するような態度に、学校という場が安全な場ではないものに変わった。

もちろんいい先生もいたし、嫌な先生もいた。日本の公立の学校教育では、すくなくとも学校という場が好きな大人が集まっている。

 

学校という場が苦手なこどもは、教師という選択肢はしない。

 

 

中学時代に周りに流されて・・・

部活で剣道を選んだことから、なぜか警察官という選択肢が浮上した。クラスの友人に警察官の子供がいて、しきりに警官になりたいから剣道をしているんでしょ?と聞かれ、全然違うのに、そうなのかもしれないと洗脳されていった。

 

周囲の親族も教師や公務員が多かったので、現実的にそれもいいなと思い始めた。

 

 

真剣に剣道を続けられる道を考えて、それも悪くないなと思っていたときに、素行の悪い子に暴力をふるわれる事件があった。喧嘩をとめに入ったのがきっかけで、火中の栗を拾いに行ったのは自分だった。

この時に、人のためといっても、他人に攻撃されるような仕事はしたくないと思った。正義なんて時代や社会が勝手につくり上げているものだと知り、人が喜ぶ仕事ならともかく、犯罪者とかかわるような、キチガイを相手にする仕事には、つかないと決めた。

取り組む作業はもちろん、 だれとかかわるか、一言に人の役に立つと言っても、どんな世界の人とかかわるのかを決めることは、とても大切なことだと思う。

 

人の役に立つということ

人を喜ばせるという意味で、接客業について気づいたのは、美味しいものを食べている人を見るのが好きだという事だった。単純においしいは、たのしい。

 

アルバイトをしながら、コミュニケーションについて現場で実践しつづけてきたので、結局それが自分を支えてくれることになった。勇気を出して校則を無視しバイトをした16才の頃の私に感謝している。(もちろん、その後許可はとった)

 

人のしあわせもいいし、楽しい人の中にいるのもいい。けれど一番は自分のしあわせ。

卒業後はウェディングの仕事中に、お客さんからのふとした声がきっかけで、20代半ばで原点回帰し、画家としてスタートをきった。

「人の幸せ祝うのもいいけど、自分の幸せ一番に考えや~」

自分はいったいいつ結婚できるのだろう・・・と考えつつも、華やかで楽しく、運動会のようにスピーディーに挙式・披露宴をスタッフ同士でチームワークで行うのはとても楽しかった。 

ある日、お客さんに自分の幸せ考えや~と言われた。見ず知らずの主賓宅のおじさんだった。

疲れた体に鞭をうって働いていた、作り笑顔を見抜かれたのか、抑えている何かを見抜いたのかは今となっては、分からない。初対面の人が感じる事や、発する言葉は時に真理に近い。

 

その時に思い出したのは、進学先を選んだ時の事だった。学校を選ぶときに家計と家族の意見を優先した。

受験時期が早かったので、滑り止めに受けたその学校の合格通知が届いたときわたしは嫌で涙を流した。我が家の両親はその学校のブランドに、たいそう喜んでいた。わたしの気持ちを聞いてくれる人は、だれもいなかった。

周囲が喜んでいても、自分が嫌なら、それは嫌でいい。自らに由ることが、自由という言葉の意味を最近よく書くのだけれど、自分に由らない選択は自分を不幸にし、結局周囲も不幸にしていく。

 

親御さんによくこの話をするのだけれど、学校に行くのも就職するのも本人なのだ。その子の喜びや、楽しい時間が何かというのをしっかり聞いてあげる大人になってほしい。

残念ながら、学校教育でスキを仕事にしようとか、楽しい事をしようというのはまだ少ない。

夢や目標をもとう!というと、たいそう立派な言葉なのだけれど、それにむかって疲弊したり、ワーカホリックになったり、はたまた身体を壊す姿をみたいだろうか?

 

そんなことよりも、毎日を楽しく幸せに、ただ子供の心からの笑顔の方がみている方が幸せだ。

 

好奇心を満たすこと

ほかにもその都度、興味の赴くまま仕事をしてきた。今後も仕事は興味と好奇心を満たすことを、つづけていく。叶わなかったものは、結局続けられなかったことだった。

続けられないことは、最初からやらないことにしたら、必要なものが手に入るようになった。

 

結局自分がすべて決めていたのだな・・・なんて思うのでした。

 

 

 

そう書きながら、思いだすことは、こどもの頃に真剣に考えていた、世界が平和になる方法についてだった。世界平和といっても、平和なはずの日本でうつ病や自殺が亡くならないのはなぜか。

結局自分のしあわせを、自分で作る能力だと考えている。しあわせは考えても作れない。感じるこころについて、カウンセリングで伝える事と、コーチングで現実をつくっていくこと。言語以外で伝えるのが絵画で、自分の喜びである。これからもものづくりをつづけていける事がわたしにとってはしあわせなこと。

 

自分の生い立ちから、教育と心理面に興味がわき、好きだったものづくりと並行してどちらも仕事になっている。

 

 

 

 

Netflix火花お題「夢と挫折」

Sponsored by Netflix