Choice

好きをみつける→仕事にする、をサポートしている日々の記録

うまくいかないときほど、忘れていることがあるから、大切なのは<遊び>と<休み>と<テンションが上がる>予定から組み込んでいくことだ。

うまくいかないとき

わたしはしょっちゅうつまづく人間である。大抵の場合、自分の思い込みによるもので、人に聞いてしまえば解決する。つまづいている時、大抵の場合焦っていたり自らの思考に占領されて答えがでない。

 

自分で客観的な視点を持っているつもりでも、それは永遠に主観。

 

がんじがらめになる前に、相談するチームで仕事ができていた組織という環境は素晴らしいな・・・なんて思い返す。

ただその弊害もあって、組織にはあまり興味がないにしても、チームを組んで仕事をするのが大好きなことを思い出した。

 

ただ人に聴くことより前に、忘れているのが、音楽を流すことだ。

音楽は波長や空間の空気まで整えてくれる。音楽が専門の人や、知人のサイキックな人は楽譜や譜面がうかぶから無理!という。

 

自分にとって整える方法は、分かっているけれどすぐに忘れてしまうから、手帳に書いておいた。

 

音楽を流す!と。当たり前のすごくシンプルなことなのだけれど、このひと手間で作業の効率も、自分の気持ちも大きく変わってくるのだから、不思議なものである。

 

目の前の問題は、実は問題ではない

こころにひっかかる何か、が確実にあるとき、自分ではもはやそれが何かさえよくわからない。

自分がただ弱いと言えば、それもひとつの解釈のひとつで、感受性はどれだけ鍛えても、武道をたしなんでも変わらなかった。

トレーニングを続けているうちは、大丈夫と言えるが、それを辞めた瞬間に面白いくらいにまっさかさまに落ちる。

続ける事ができないことに、どれだけ時間を費やしても、やめてしまえばその安定はなくなってしまう。

 

当たり前に既に日々、行っていることの中にメンタルを整える作業を組み込むのが、最近のおすすめである。

今までやってこなかったことを加えるのは、大変。

 

とはいえ落ち込むことだって、大切な時間

日々のトレーニングや、製作やタイピング作業による精神のメンテナンスがうまくいっているときは、いい。そうでいないときは、一気に落ちこむことがある。面白いくらいに落ち込む。

ネガティブはスパイスのようなもので、多分喜びを味わうには不安や恐怖を味わった方がよりおいしく感じられるのだと思っている。

 

ネガティブに浸るのも、悪いものではない。

 

それらを嫌っていたり、感じたくない!と抵抗していた時は、寝込むのもしょっちゅうだった。目をそらそうとはしゃいでみたり、別の何かで解消しようとすると決まって倍増してくる。

真正面から、ただ対峙すればいいだけだった。

 

今まで嫌っていたから、初めはとにかく嫌だった。苦手だと思っていたものは、嫌いだけれど、そのネガティブさえ自分のかけがえのない一部であることに気づいたとき、不思議なもので、するっと次の考えも気持ちもわいてくる。

無理やり切り替える必要なんてないから、ただ流されてみるのはいかがでしょう?とおもうのでした。

流されると言えば人は嫌うけれど、流れに乗ると言えば人はテンションがあがるらしい・・・。

 

同じことなのに、人間ってホント、不思議なものです。

いまここ意識と人を喜ばせる秘訣。

ボケた祖母に学んだ、【今ここ】意識と人を喜ばせる秘訣

祖母は4年ほど前に脳梗塞を発症した。幸い、大きな麻痺も無く、普通の毎日を過ごしているのだけれど、日に日に痴呆がひどくなっている。

一日一緒に過ごしていると、昼間食べたものや、私の名前も他の人と間違える。それでも一緒に笑った内容の話だったり、人が沢山集まったりした時や、強く感情が動いたこと等は不思議なものでよく覚えている。

 

瞬間瞬間生きるとは、過去に執着しないこと

祖母は、昔の事を思い出せないらしい。といっても結婚前の娘時代の事は鮮明に覚えている。

 

人間の記憶というのは、とても曖昧なものだ。という事は仕事柄よくわかっているつもりだったのだけれど、過去に聴いていた話の内容とは別の、様々な記憶が新しい別のエピソードに書き換えられていて、果たして何が真実なのかわからない。

 

といっても、祖母が好きな食べ物を食べさせると「こんな美味しいもの、初めて食べた!」「これは何ね?」という興味深々なやりとりが毎回行われる。

 

「こんなの初めて!」は、聴く側はとても幸せだ

こちらはもう慣れてしまって、今日もこの反応なのだろうなぁ・・・と予測はするのだけれど、人が喜んでいる姿というのは面白い。

初めてと言いながら彼女が食するものは、こちらがチョイスした彼女の大好物である。大好きで当たり前で、その新鮮な瞬間を毎回味わえるのは少し羨ましい。

 

もちろん、その瞬間でさえもすぐに忘れてしまうのだけれど・・・何度見ても、分かっていても、祖母の喜ぶ姿を見るのは嬉しいものである。

 

ああ、男性とデートしているときに「こんなの初めて!」というとウケるのは、こういう感覚なのだな・・・と祖母に勉強させてもらった。

 

今この瞬間を生きるとは、<過去、今、未来>という線ではなく<点>

ばーちゃんは、ばーちゃんの今を生きているんだなぁ・・・と子供と過ごすときに、いつも立ち会い共有していた感覚を味わっている。

 

所謂”未知との遭遇”の瞬間を毎回見守る。これが、最近のわたしの幸せな時間である。

 

親子関係というのは、面倒臭いもののようで母や叔母はそんな祖母にイライラしている。のだけれどその横でわたしは毎回、キャバ嬢並みに大きなリアクションをとる。

 

こうすると、祖母はとても喜ぶ。名前も忘れてしまった孫でも、親切な人として認識する。ちゃんと名前を呼ぶときもある。もはや名前など、どうでもよくて、よく泣くようになった祖母の<楽しい>を共有することだな~としみじみ感じる。

 

 

そもそも子供のころから、親戚中で似たような名前が沢山あったので呼び間違えられることはしょっちゅうだったから、どうでもいいのかもしれないと文章を書いていて、ふと気づく。

 

 

 

こんな状態で1人暮らしを続けていて、周囲の親族がサポートしているとはいえ、それが無理になるのは時間の問題である。叔母が古い考えの人間で、老人ホームに預けるのを拒む。

 

とはいえ叔母自身も持病を抱えており、まったくもってサポートできている状況とは言い難いのが正直なところ。老人虐待だ!と親族で言い合うこともあるほどだ。関西人にありがちな冗談半分、本気と皮肉も混ぜている。

 

もちろんデイケアにも通い、徒歩3分ほどの近所にすむ叔母はサポートを頑張っている。祖母の兄弟も朝晩とお茶を飲みに来てくれる。

 

拡大家族で育ち、生涯一人暮らしをしたことが無かった祖母は、一人で住むのが好きではない。

 

 

離れて暮らす私や、実家の両親はトラブルが起こるのも時間の問題と感じているが、叔母は全くそう思っていないらしい。

 

自分の落ち度が見えない人間が苦手だ。完璧にこなしていると思い込み、周囲にも強制的に手伝いを要求するものだから、たまったものじゃない。

どれだけ完璧にこなしたと思っても、絶対に80%程度しかできていないという考えで生きているから、お互いさまとか助け合いという精神が育まれる。

 

叔母がジャイアンを卒業する日は、こないのだろうなぁ・・・なんて想像を巡らせている。

 

兄弟は他人の始まり

そんな言葉がいつも頭にうかぶ。兄弟も親子も同じ一つ屋根の下で過ごしても、考え方も顔も違う。

 

似ているという事は、まったく別の存在ということを痛感した2016年のお盆だった。同じ人なんて存在しないし、同じ考えの人は一人もいない。

 

自分の意志を早いうちから、言葉にする。

 

自分の人生の選択は、自分でする。これを忘れないためには、日々何かに集中している必要があるな・・・なんて思うのだった。

 

惰性で生きるのは、簡単だし生き方の一つでもあるけど、人生をさぼっていると好きなことも、本当の喜びも分からなくなるよ・・・と過去の自分に告げるのでした。

 

さっさと好きなことを、やれ。毎日楽しく今を生きれるのは、好きなことを探した人の特権だから。

 

探さないと見つかるわけが無い。

 

 

大抵、当たり前にやっている作業や趣味の中に、その好きポイントは潜んでいる。

壊れたら、変わるとき。創造的破壊について。

気づけば記事の投稿数が【42】になっていて驚いた。適当に日々のアウトプットに使っていたので、内容はかなり思いつくままに書いている。

 

本当はもっと丁寧に、推敲を重ねたい。そんな新たな欲望が生まれてきた。

 

集中して文章を書ける環境で、お気に入りのPCを使って、ホテルに缶詰めとか海を眺めながらとか。

旅先で仕事もするスタイルが、結構好きだし場所が変わるとかなり作業がはかどる。そんなタイプだから旅がてら日本各地&世界各地でコーチングやコンサルをしながら、めぐるのも良いなと思っていた。

 

そんな事を考えていたら、持ち運び用のPCの画面が割れた。

 

といっても自分の不注意で、間に薄い本が挟まっていた。そんな状態で持ち運んだものだから、自分が悪い。自宅まで3分ほどの距離なので、時々そうしていたのだけれど、これはまいった。

 

 

かなり大昔の型のレッツノートで、ネットもつながない作業に使っていた。タブレットは便利なのだけれど、文章を打つにはキーボードが好きなので、結局モバイルの持ち運びに便利なパソコンを探している。

 

あえてワードとエクセルのみを使う作業に、この1月ほど使っていた。懐かしいな~と過去の色々な作業に思いを馳せながら、物にまつわる記憶は沢山よみがえってきた。10年近く前の物だったので処分に困っていたというのが正直なところ。

 

はやく新しいパソコンを買いたいので、まずはどれを購入するか決めなければと仕事そっちのけでネットサーフィンに励んでおります。

 

 

 

本日からまた、心理関係の記事を沢山アップしていきます。

 

死にたい、は生きたいである話。グリーフケアと自殺願望の相談に思う事

人間である以上、人はいつか死ぬ

すごく当たり前のことだけれど、現代社会において死に触れる機会は少ないらしい。核家族だったり、近所づきあいが少なかったりで、世代を超えて人とかかわっていると、当たり前にある葬儀でさえ、子供時代に経験していない人が多く驚く。

 

生き物やペットを飼うことで、生命はいつか死ぬという事を知れる。命の大切さ云々よりも、自分自身も目の前にある誰かもいつかは死ぬということを受け入れながら生きる必要が在る事を感じる。

いつ死ぬかわからないのに、生きるのめんどくさいなと思った事が、子供時代にあった。

 

死生観をもつことの重要性

ふと「死にたい」と思う事があった。最近でもたまに、嫌なことがあると、死にたいと思考が浮かんでくるのだけれど、思うのは自由で、もちろん行動に移すことはない。

(そもそももっと美味しいものが食べたいし、旅行がしたかったり、欲があるのでそんなもったいない事はしない)

 

それでも浮かんでくる思考は、否定するのではなく、ほったらかしにして受け流すとさら~っと去っていく。

 

死にたい、はフェイク

そんなわけで<死にたい>は、フェイクでその言葉を借りているだけで、違う何かの本音がある。さみしかったり、わかってほしかったり、色々あるけれど、人前でこれを発言するタイプの人間は、共感を求めている人が多い。

 

結局それは「○○してほしい」「わかってほしい」と言えばそれで済む話なのだけれど、一つ前の記事に書いたようにセリフを知らないと、言えない。だから解決することも無い。

 

自殺願望の相談

人生が嫌になって、死にたいと思ってそれを相談しても、その思いが消えることが無いんです。と言われる事が何度もあった。それは自分の人生を嫌にしてしまっているからで、嫌なことを辞めていくこと。イエスマンになるのではなくNOを伝えていくことで相手のふるまいも変わっていく(変わっていくように見える)から、これまでいい子ぶりっこしてきた人はノーを言う為に、今の現実が嫌になっている。

知人のカウンセラーの自殺願望のクライアントに対する手法が、すごく興味深く共感するのではなく、すべてを応援するという方法をとっていた。

 

死にたいという人に対して、応援するよという

死にたいくらい人生が嫌だったり辛いのだけれど、もはや自分では何をどうしていいのか分からないケースが多い。客観的に見ればすごくシンプルなので、クライアントであれば、すぐに行動していく方法を一緒に考えていく。

けれど、その人は「あなたのする事、したい事、全部応援するよ!ほんとうに、したい事なら!」というのだ。

 

共感しても、同意されても解決しないことが多い。死にたいと言っている人に、死んじゃダメ!という人も多いし、死のうとする人がいたら止めるのが筋・・・とされているが必要なのは、まず相手の本音を聞いてあげることで、否定も肯定もいらない。

 

いちど飲みの席で、「わたし死にたいんですよね~」と笑いながら言う人に出会って、簡単に死に走るようなタイプの人間に見えたので、彼女に応援するよと伝えた事がある。あっけにとられた彼女は、自分の本音に気づき、自分の道を歩き出した。

もちろん「じゃあ死んだら?」と言えばショックを受けるのは見えていたから、応援という言葉を使った。

 

かまってほしいなら、優しくされたいなら、話を聞いてほしいならそう言うんだよと伝えた。

 

 

グリーフケアに思う事

身内の自殺は面倒くさい。

 

言葉はすごく悪いのだけれど、ほんとうに面倒で、周囲に与えるショックが大きい。他人をコントロールすることなんて、できないし、人は人の言う事なんて聞かない。

 

わたしは、ある意味死にたい!と思って死ねる人を尊敬している。

怖すぎてそんな事は出来なかったからだ。10代前半に家庭環境から本当に死のうと思ったことがある。

とりあえず飛び降りを検討して窓辺に立ったとき、やらなきゃいけないことや、やり残したことが脳裏に浮かんで、実行なんてできなかった。それ以来、死にたいと思ったときはその思考を否定していた。「こんなこと思ってはいけない」と。

それに苦しんでいた時期もあったけれど、頭の中で考えることは、自由で、どちらでもいいと自分に許可を出せるようになったとき、世界の見え方が変わっていった。

 

日本人の死生観

こどものころに初めて、真剣に死について考えた時、痛いのも怖いのも嫌いで、死んだらどうなるのか分からないのに死ぬなんて、ナンセンスすぎて実行できるわけもなかった。きっかけは親から死にたいと際限ない愚痴とともに死への願望について告げられたことだった。あまりに辛すぎて、他人にその発言をすることは無く、当時は真剣に悩み死について考えていた。

 

そこから世界の宗教や、スピリチュアルなど様々な分野の本を読んだり、いろんな人に会いに行ったりするのだけれど、結局死んだ人に会ったことがないので、明確な答えは分からない。

肉体を持っていないのだから、当然の話である・・・苦笑

 

死にカタログという本

世界中だと色々な死生観がある。輪廻転生もあるのか、無いのか分からないけれど考え方は沢山ある。チベットで医療支援をしている人の話はとても興味深くて、医療が発達しない理由は、死んでもまた生まれてくるからと医者がすぐに諦めてしまう事だった。

そういう意味から考えると、日本人は生きることに対する執着が強いのかもしれない。

世界各国のお葬式事情についても書かれているので、かなりお勧めの一冊。

 

死にカタログ

死にカタログ

 

 

 

死はいつからダメなことになったのか

だれも避ける事はできないけれど、当たり前にある生と死。どっちも大して変わらない、とおもうのでした。

「愛されたい」は、弱音じゃない。こころの傷とからだの傷、一気に癒える話。

「愛されたい」は、弱音じゃない

先日あるグループカウンセリングの会に、参加してきました。(まさかの二度寝で寝坊、通常ではありえない現象です。苦笑) 

遅刻しダッシュの道の途中、駅でベビーカーを担ぐお母さん発見。

 

とっさにかけた言葉は「大変ですね」でした。

 

あれ?なんであんな言葉を発したのかな・・・と思いつつ、自分の一日を振り返ったら、これは自分が、かけてほしかった言葉のようです。遅刻して大変だったもんなー笑

 

 

会議室に入った途端

初参加のその会は、会議室で行われていました。もちろん連絡は入れているものの、ドキドキしながら扉を開け入室。

 

主催のカウンセラーさんがお1人の方と話ししている真っ只中。10人ほどの人と椅子に座って一息ついたその瞬間・・・みごとに言葉がささりました。

 

「愛されたいは、弱音じゃないよ」

 

それはもうぶっ刺さったのでした。

こころに染みるどころか、どっかーんと大砲が飛んできたような衝撃。おかげで、ここ数日のモヤモヤが消えさりました。

 

カラッと晴れ渡り気分爽快。その後もウルっときたり、笑ったり忙しい時間でしたが、濃かった・・・。

 

言葉はただの呪文

言葉って、ただの呪文であり、セリフです。でも聞いた事が無い言葉は言えません。聞いたことが無いセリフはもちろん、言ったことの無い、自分の辞書にない言葉はつかえない。

 

さらに同じ言語であっても、人によって解釈が異なるわけで具体的かと思えば、じつは抽象的なことが多いので、解釈の部分を聴いて掘り下げるのが普段の私の仕事です。

 

相手と同じ呪文を使えれば、それはサクッと通じて意思疎通がスムーズになる。

 

つまり魔法になるということ。

 

 

午後に起こったこと

カウンセリングに参加したのも、自分の傾聴を深めるのにつながるから・・・という理由もありますが、なんだかモヤモヤが晴れないから。こういう時は新しい風に触れるのが一番。そんなわけでプロのお力をお借りしたのですが、モヤモヤの症状の原因と思っていたのが肩&うでのしびれ。

 

身体が痛い時、やる気もそがれますよね・・・。 ただ、原因が身体の症状から来ているのか、心からきているのか分からず、痛すぎて寝れないほどだったので、会のあとは大阪へ。

 

結論から述べると、自分を引っ張っていたのは、身体も過去の古傷でした。

 

身体の古傷発覚

体質なので、仕方がないとあきらめていましたが・・・私は靭帯が緩く以前、整形外科を10件ほどめぐって、ようやくついた診断がルーズショルダー(苦笑)

 

ボルトを入れて固定してもいいけれど、まだ大丈夫なレベルだし・・・と先生、エコーをしながら半笑い。(悪い意味ではなく、これ以上動かすと肩が抜ける!というのが分かるトーク&外の筋肉で支えていたので、筋肉厚いという意味の笑いです。)

鍛えているからいいけれど、これずっとトレーニングしてね、と。

 

はじめのころは毎日インナーマッスルを鍛えるために、筋トレしていたものの、続かない。結果腕がしびれるし、痛い。

 

原因は腕じゃない

今回大阪でお世話になった先生が一言。「あ~足ケガしたでしょ?こっち治さないと腕は治らないよ~~~~~~。運動なにしてたの?」 

「右足の筋肉、つかえてないよ」 

 

ええええ?確かに右足ばかり故障していましたけど・・・と思いつつ、見事にずれていたのがはまった感覚に。

 

使えていなかった筋肉のバランスから、先生に多分これは少し痛くなるけれど、悪いことじゃないからね~。バランス狂ってたから、整った証拠だよ。と、予言通り筋肉痛になる始末。

 

 

足と腕が引っ張り合いっこしている状態。

そら体中バキバキになるよね・・・と笑いながら思ったのは、筋肉はもちろん、筋膜、靭帯、骨、皮膚と身体全体をトータルで見れる先生に出会えたからこそ分かったこと。

 

10年以上前の運動での脚のケガが、左腕に影響を出しているとはつゆ知らず。そりゃ筋トレしても、カイロや鍼灸、整体にどれだけ通っても、治らないわけです・・・。

 

 

身体のケガも、自分を引っ張っていたのは自分の古傷。(自分では気づけない)心もまだ言葉になっていない部分を言語として、しっかり表現できている人に出会ったから、解決したのでした。

 

 

 

「○○してほしい」の何をしてほしいのかさえ、分からないこの状況。

甘えたかった、かまってほしかった、○○してほしかった・・・の全部は、私だって愛されたい!でした。

 

 

 

すごくシンプルな、本質的な欲求ですね。 今回のもやもやは本当に「大変でした」(笑)

 

さっさとプロに見てもらえば、足引っ張らずにすんだのにね(笑)自分のあしをひっぱっていたのは、やはり自分。

 

 

まあ、もがきたかったのでしょう。

ということでスッキリした8月を過ごせます。

 

 

お題「口ぐせ」

母親との関係(母親役の人の自尊心を、そのまま引き継ぐ)

 

母親(父親も然り)一番よく接する大人が幸せかどうかで、こどもの自己重要感が大きく変わってくる。

イライラしているお母さんに育てられるこどもは、ただただ辛い。だからお母さん方はさっさと自分が遊ぶことを優先させてほしい。

 

ちょうど心屋さんのポッドキャストでも似たような内容が話されていた。文書を読むのと、音声できくのとは別の楽しみ方がある。

 

KIQTASの「心屋仁之助の「ホントの自分を見つけるラジオ」」を iTunes で

 

心屋さんのカウンセリングがいいのは、カウンセリングなのに楽しいところ。ブログもとても面白いけれど、音声はもっとわかりやすい。

沢山泣いて、沢山怒って、沢山笑えばいいのだと思わせてくれる。

 

 

最近、親の話が多い。

ついでに先日まさに予備軍な人と会うことがあったので、記事にしたいけれど文章がまとまらない。

 

このジレンマも楽しんでしまえばいいのか・・・なんて思いつつ、エアコンを入れた。なぜかこういう内容が目に飛び込んでくる。

 

今更兄が親の愛情とかうるさい

 

プレゼントも親孝行も、一人でするものだし、周囲にそれを強要しないでほしい。家族(兄弟姉妹)でチームワークが必要なのは、多分お葬式のときくらいだな・・・とふと思うのだった。

 

もちろん共同で行う事も、悪いわけじゃない。ただ家族の引っ張り合いというのは恐ろしいもので、力関係で生きている場合、その根っこを断ち切ること。

 

人に感謝されたいと思ってとる行動は、周囲を疲弊させる。

何かを責めている限り、何も変わらない。人を責めなくていいし、自分も責めなくていい。

何かを責めている限り、何も変わらない

命令して人が動くとき、我慢が必要でこれはストレスがたまる。命令は威圧や怒りなど、コントロールすることで相手にストレスを作ってしまう。命令をただ<依頼>に変えるだけで、人は喜んでくれるようになる。

人を責める人は、自分を責めその矛先が他人であれ自分であれ、行動に結びつくことは無い。

 

悩みがなくならない人間は、自分で自分を責め足枷をはめている。

 

依頼やお願いは、喜びにつながり豊かさが循環する

前者が反発が抑圧を生むのに対して、後者の依頼は相手を尊重することができる。どちらも似ているのだけれど、全く別物。

 

相手に有無を言わせない命令と、選択を与える依頼とはやりがいが全く違ってくる。もちろん断られてもそれは、当たり前のこと。相手を尊重することは、YESもNOも受け止めること。

 

愛情と愛

「あなたの為を思って言っているのよ」というのは大抵の場合、相手をコントロールしたい人間が口にする言葉で、本当に相手のためを思っている人はこんな言葉を使わない。相手を尊重するコミュニケーションをするには、命令をする必要はない。

 

あなたの為を思っているひとは、すべての判断を尊重する。アドバイスを頼んでいないのに、してくる人は大抵の場合で自分がアドバイスが欲しい人間なだけ。

 

愛情があるから怒るんだというのは、私は傲慢だと思っている。怒りを人にぶつけることに対して、理解できない。もちろんパートナー間では、感情をぶつけ合うのも必要な場合もある。

自分の感情の責任は、どんなときでも自分の中にある。

 

これが分かっていない人と、かかわることが苦手だ。

 

愛情をはきちがえてはいけない。愛と愛情、この二つの言葉はとても似ているけれど、漢字をみるとおもしろいもので、情とは<心が青い>と書く。

情に深いというと、良い言葉のイメージが強いけれど心が青いようだ。情に流されているときは、まだまだ青いというのはこういうことだったのか・・・と書きながらハッとするのでした。