人を殺してもいい、と他人に言えるか
人を殺してもいい、と他人に言えるか
「人を殺してもいい」と言えますか?
「人は殺してもいいんだよ」と知人が言ったとき私はぶったまげました。ええ?この人殺人を正当化するのか・・・怖いなぁ、と。学校でも家庭でも当然のように人を殺してはいけない、傷つけてはいけないと教わりますよね。
その一方でニュースで殺人や犯人逮捕の話を聞きます。その犯人は生きていてはいけないのか?例えば故意ではなく、事故やなにかしらの理由などで、人を殺める結果になってしまった、なんていう人は本当に責められなければいけないのか?よく聞けばこういった話題を考えるという話でした。教育が洗脳である話と、加害者が作られる背景ナドナド・・・う~ん難しい話題です。
起きてしまった他人が引き起こした出来事に関して、当事者だった場合どうするか?という話題だったのですが、なんともまぁ冒頭がショッキングな切り口だったのでびっくりしました&すごく印象に残っています。
○○してはいけないの落とし穴
「人にされて嫌なことは、相手にしてはいけません」と聞きながら育ちましたが、これって人それぞれ嫌なことも好きなことも違うので、気を付ける必要がある言葉だなぁ・・・と。
抽象的な概念なので、ときに暴力的なとらえ方もできてしまうので恐ろしいです。<自分がされて嫌なこと>という事自体が主観的。そうじゃなくて、相手が何をもとめているのか?をするのが、相手の事を考えるのが、何かをするときの第一歩。
どれだけ相手の立場にたって、考えたところで主観でしかないので、サプライズやプレゼントならともかく、日常や仕事ではきけばいいだけ。空気読むという言葉がコミュニケーション不足を生んでいるように思う、今日この頃です。
正義は悪をつくる
戦争反対!と言いつづけても、現在も世界のどこかではそれが、起こっています。日本に暮らして日本のテレビだけをみていると、すぐ忘れてしまう。
世界大戦ではないので、忘れがちですが紛争は、いつもどこかでおきています。先日もテロがおこって心が痛みます。
話変わって、日本の昔話をしましょう、祖父母世代の時代の教育だと「人を殺してきなさい」という教育だったわけです。敵国の人間を殺すことを、教わって育った世代ということです。
いまの時代はグローバルや異文化理解もうたわれていますが、わたしは海外で”日本人”という理由で、めちゃめちゃ怒られた事があり、なんだかな~と思う事はありました。こういうアクションに本当に議論できる日本人でいたいものです。
私はあなたと仲良くなりたいと思っているよ?の一言で、形成が一転したことがありましたっけ。
戦争教育が大切と言われるのは、ダメだ!NO!という答えではなく「あなたならどうしますか?」そう問い続けることなのだと思います。
やなせたかしはアンパンマンはもちろんバイキンマンも愛していた
ものを作る側になって、気づくのですが、自分の産みだしたものや作ったものって、すべて愛があります。ほんとうに、分身です。
親子に関しては愛情だったり、無条件の愛だったり人それぞれかもしれませんし、(すべての親がそうとは言えませんけれど)少なくとも作り出したキャラクターや商品は、いわば自分の分身のようなものです。
作品の中で善悪はありますけれど、全部自分の中にある感情やキャラクターなんだなぁと。これはやなせたかしさんに限らず、スターウォーズの監督スピルバーグさんもそうですし(ダースベーダーは悪だけれど、ファンもいっぱいいるよね)すべての作品や物語にいえること。
バイキンマンはダメ!ダースベーダーは悪!も一つの見方ですが、それらのキャラクターを通して、伝えたい事って何だったんだろう?と考えさせられる物語を作れる人たちって、すごいな~と思うのでした。
正義と悪の二元論ではなく、それぞれの価値観という多様性
結局平和をつくるのは、自分が自分の好きな人生を生きること。自分が自分に集中しているとき、相手の一見、好き勝手に見える行為も許せるよ~というは話でした。
他人にとやかく言う時間や、ワイドショーみて会ったことも無い人に、とやかく言っている、しょーもない時間は本当に自分の人生に必要なのでしょうか?
というわけで、アンパンマンがこどもの頃大好きだったなーと思い出しつつ、善悪がすべてだと生きづらい、という話でした。